四国山霊場は、嘉永2年(1849)矢野郷の吉岡屋大八の発願により、町内の河野武衛門など、豪商の有力な支援を得ると共に、近郷浦里の住民素焼の祠を山に設置し八十八カ所の札所としたのですが、更に永久性のある石仏の創設を思い立ち本格的な勧進に乗り出しました。
しかし、この計画は反対者の諫言に依り突如、藩の代官所より工事差し止め厳しい御咎めを受け、設置された石仏は、山から降ろされ萬松寺の境内に集め積み上げられました。
こうして初期の悲願は廃絶に帰しましたが、その後この地方に大地震、大洪水がおこり、その上数ヵ年に亘って悪病が流行し、代官や庄屋の家庭にも不祥事が続き、人々の心は穏やかでなくなりました。
そこで八幡浜六郷(八幡浜・松尾・北芽・南芽・栗の浦・向灘・矢野町・八代・五反田)などの村役人が集まり相談の末、人心安泰と郷土の繁栄を祈願するため、本四国霊場の三巡を計画し、有志を募り巡拝の旅に出ました。
その頃、何時の間にか、誰が運んだものか、石仏は元のお山の御座に還されていました。 お役所も遂にこれを黙認するところとなり、これを期に再び吉岡大八は廣屋伝吉、紙屋幾松などを説き、新四国の霊場再興拡張を思い立ちました。こうして発願より17年目すなわち元治2年(1865)の3月に地四国満願成就の開眼供養が行われるに至ったのです。これが四国霊場の起こりであります。
爾来、四国山は本四国霊場に巡拝の出来ない信者の簡易巡拝霊場として、観光の名所として広く近隣から参拝者が訪れるようになりました。特に明治36年(1903)郷土が生んだ大関朝汐太郎の碑が建立され、それを記念に縁日の奉納相撲が始まりました。この相撲大会は戦前戦後を通じ、八幡浜の夏の風物詩数えられました。また大正6年(1917)には八尺神社の宮司だった清家中枝翁が、山頂に明治天皇遥拝所を建立。皇道一心を唱え、西宇和郡小学生の相撲大会も始めました。
昭和26年(1951)酒六株式会社の社長酒井繁一郎氏を会長とし、四国山霊場奉賛会が組織され、春の縁日の「稚児行列」、夏の縁日の愛染堂前河原の特設会場での「のど自慢大会」と多彩な行事が催され、南予一円から参拝者が山を訪れました。
その後、奉賛会は設立10周年を記念し、山頂に弘法大師の大銅像を建立し、四国山の新しいシンボルとなりました。 現在奉賛会は2代目酒井寿太郎会長で、吉岡大八の意志を受け継ぎ、150年の放灯が護られています。
お四国山頂の建徳寺には、真言宗御室派 本尊弘法大師 脇士不動明王、聖観音、本堂、鐘楼堂、聖天堂、不動堂、弁天堂があります。
大正初年慈泉弘妙尼(菅イワ)の開基であり、初め真言宗醍醐派教会所建徳院として設立、二世弘真師、三世現在弘宣師に至り昭和24年真言宗御室派仁和寺末四国山建徳寺として寺号公称現在に至っています。
四国山は市内を流れる千丈川と五反田川の合流点から南へ約1kmところ、標高135m1周約3kmの山である。五反田川添いに3分ほど歩いたところに、霊場登山口の石標がある。愛染堂かん萬松寺までの参道には春の桜、5月のつつじ、夏の萩、秋の紅葉等四季を通して自然発生の山で、年間延べ10万と言われる参拝者および散策者で賑わい、また、頂上にたたずめば市内を眼下に見下ろせ、八幡浜湾を一望におさめる名所であります。
『嘉永2年開創150年記念 2000(平成12年)豊予社 カレンダー』より |